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幕末から明治ぐらいの福岡藩や福岡市についてごちゃごちゃ言うブログ。
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松浦愚(まつうら おろか)に関する記事まとめです。

 初出:明治10年6月25日のアイツ  2011年6月25日
    描かれた<松浦愚>       2015年2月19日





※写真はクリックすると別窓で大きくなります。




松浦愚というのは決して著名ではありませんが、いろいろ探してみると、彼の登場する小説もあるし、さまざまなエピソードを持っている人物です。
頭山満や箱田六輔、進藤喜平太らが玄洋社を設立するよりずっと前に仲間だった青年です。 最も有名な作品としては、夢野久作『近世快人伝』の「奈良原到」(上)があります。同じく夢野久作は『頭山満先生』でも松浦を紹介しています。どちらも奈良原至からの聞書という体裁ですが、人物造形は『頭山満先生』のほうが詳細です。
夢野久作より早く作品中に松浦を描いたものには、平井晩村『頭山満と玄洋社物語』があります。この小説は『西南記伝』下巻2やこれに先行する清漣野生(江島茂逸)『明治丁丑福岡表警聞懐旧談』が参照されているのではないかと思います。
近年のものとしては土井敦子『天翔る<高場乱>』があります。タイトルの通り、高場乱が主人公の小説です。

高場乱を主人公とした小説には永畑道子『凛―近代日本の女魁・高場乱』というものもありますが、こちらには松浦は登場していなかったような……

資料として人物伝となりうるものは少なく、活字となっているものとしては『西南記伝』下巻2と『玄洋社社史』がありますが、『玄洋社社史』の内容は『西南記伝』下巻2とまったく同じで、宮川太一郎の小伝の附たりとして収録されています。 活字化されていないものには、平尾霊園(福岡市南区平和)の「松浦愚之碑」があります。碑文には上記の小伝で紹介されていないエピソードもあって興味深いです。 最も古い活字の小伝は明治44年刊行『西南記伝』下巻2「松浦愚伝」。

松浦愚、初の名は百太郎、後、自ら愚と改む。筑前の人。嘉永四年那珂郡高宮村に生る。世、黒田氏に仕へ、其藩士たり。維新の後、藩の就義隊に入り、尋て箱田六輔等と共に高場乱の塾に学ぶ。明治八年、六輔等と矯志社を組織し、九年、萩の変起るや、同志と共に窃に企画する所あり。事露れて縛に就き、翌年病を以て保釈を許され、六月二十五日、其家に歿す。年二十六。
愚、人と為り、不羈卓落、侠気あり。人の急に趨く水火も避けず。其就義隊に在るや、筑前吉塚の鍛冶信国をして、三尺三寸の長刀を鍛へしめ、製するに朱鞘白柄を以てし、自負して曰く『以て天下を横行するに足る』と。 愚の病将に革んとするや、家人に命じて曰く『丈夫褥上に死するを恥づ、須らく我身を屋外に出すべし』と。家人躊躇之を敢てせず。愚叱して止まず。遂に屋外に出でゝ瞑せりと云ふ。
   黒龍会『西南記伝』下巻2

代々福岡藩士だったとは書かれていますが、実際のところはよくわかりません。松浦愚の生まれた頃には、松浦姓の藩士はいません。
慶応3年4月に書かれた「足軽組付」(原本不明)には、田尻孫次郎組に「高宮村 松浦百太郎」の名前が見えます。維新後は士分として扱われた卒、ということなのかもしれません。
また、後半の死の場面には、脚色が入っているようです。公文書には「獄中病死」とあり、頭山満も松浦の死については

入獄した同志は、皆元気であつたが、一人だけチブスに罹つて病死した。助からなかつたのぢや。
   薄田斬雲『頭山満翁の真面目』

と回顧しています。また、頭山は

獄中では松浦愚も読書に志しなか/\勉強してゐた。獄中で熱病を患うて随分難儀をしたが、国に帰つて死んだ。惜しい奴ぢやつた(昭和一八、一、二五速記)
   頭山満翁正伝編纂委員会編『頭山満翁正伝(未定稿)』

とも語っています。
「国に帰つて」というのは、山口の獄から福岡の獄に戻ってから死んだ、という意味でしょうか。
頭山や松浦は明治9年11月に捕縛されるのですが、年明けて10年になると、福岡でもいよいよ挙兵の動きが出てきます。こうした不平連が入獄している者たち(頭山や松浦など16名)を助けるために監獄を襲う可能性がある(実際3月の挙兵で村上彦十隊が監獄を襲っている)、ということで、16名は山口へ移送されていました。
ただ、頭山は獄中で越知彦四郎と話をしたと言っているので(越知は4月5日捕縛、5月1日斬首)、どこかの時点で福岡へ戻されていたもよう。
ちなみに、山口へ九州臨時裁判所が設けられるのですが、松浦の死後1ヶ月以上経った8月の時点でまだ頭山らは福岡の獄にいたようで、福岡県令から臨裁判事河野敏鎌へ伺書が出されています。
なお、この伺書には松浦の口供書が添付されていたようですが、実物の所在は不明……み、見たい……

さて、事実確認(?)は以上として、松浦とはいったいどんな人物として描かれているのか、という話です。 夢野久作は、松浦と仲良しだった奈良原至から聞いた話として、いくつかのエピソードを紹介しています。

自分(奈良原)と同じ年輩の塾生に松浦愚といふ少年が居つた。此の男は自分の名前をつけて呉れた両親の心持を守つたものであらうか。少し足りない位の正直者で、イクラ先生から叱られても学問が出来ないので、皆から松浦の馬鹿々々と云はれて、軽蔑されたり可愛がられたりしたものであつたが、それでも正直者だけに、先生から云つて聞かせられた皇室のありがたい道理だけは、誰にも負けない位よくわかつてゐたらしい。或る時、ドエライ事を仕出かして皆をアツト云はせたものであつた。
此の馬鹿の松浦と自分は大の仲好しで、イツも一緒にお使ひに遣られたものであるが、これは松浦が馬鹿力があるので重たい荷物の時に都合がいゝ代りに、時々飛んでも無い失敗をヤラカス。釣銭を胡魔化されたり、途中で品物を落したり、さうかと思ふと折角買つて来た野菜の上に、ラムプの石油缶を置いて、振りまはしながら帰つて来た為に、その晩の副食が全部石油臭くなつて喰へなくなつたりするので、そんな事の無い様に自分が付けて遣られたものらしかつた。
   夢野久作『頭山満先生』4

「自分と同じ年輩」とは言っていますが、松浦は奈良原より5歳も年長です。よっぽど幼く見えたんだろうか……
それから、おそらくですが、「愚」という名前は自ら名乗ったのではないかと思ったりなどします。この頃の人びとはけっこうカジュアルに(?)名前を変えちゃいます。
この頃改名した人びとの中には、「愚・戇(おろか)」のほかにも「鈍(にぶし)」「劣(おとる)」「遜(ゆずる?くだる?)」といったマイナス要素強めの名前が見られます。
わざと悪い字を使うことで呪術的に身を守るとか、本当にへりくだっているとか、その字の持つパワーを取り込んじまおうとか、いろいろ考え方はあるようです。
そんな自ら(仮)オロカなんて名乗っちゃう正直者の松浦ですが、ものすごい馬鹿力エピソードがあります。 櫛田神社醤油樽事件(勝手に命名) これも夢野久作による奈良原からの聞書です。

二人で醤油買いに行くのに、わざと二本の太い荒縄で樽を釣下げて、その二本の縄の端を左右に長々と二人で引っぱって樽をブランブランさせながら往来一パイになって行くと、往来の町人でも肥料車でも皆、恐ろしがって片わきに小さくなって行く。なかなか面白いので二人とも醤油買いを一つの楽しみにしていた。
   夢野久作『近世快人伝』奈良原到 上

こうして往来を妨害しながら愉快なおつかいに出かけた帰路、奈良原と松浦は櫛田神社の前を通りかかりました。神社では神主さんが演説中。内容は、『太平記』に出てくる菊池武時のお話。
突然馬が止まってしまったので、イライラした武時は神殿へ向かって「いかに神といえども天子の軍をじゃまするヤツはこうだ!」とばかりに矢を射た……なんてことをするから、罰があたって負けたんだ、というようなことを述べて、神は天皇よりも偉いのだ、ということを説いていたのです。
これを聞いた奈良原と松浦、

衣冠束帯の神主が得意然とここまで喋舌って来た時に、自分と松浦愚の二人はドッチが先か忘れたが神殿に躍り上っていた。アッと言う間もなく二人で髯神主を殴り倒し蹴倒す。松浦が片手に下げていた醤油樽で、神主の脳天を喰らわせたので、可哀そうに髯神主が醤油の海の中にウームと伸びてしまった。……この賽銭乞食の奴、神様の広告のために途方もない事を吐かす。皇室あっての神様ではないか。そう言う貴様が神威を涜し、国体を誤る国賊ではないか……と言うたような気持であったと思うが、二人ともまだ十四か五くらいの腕白盛りで、そのような気の利いた事を言い切らんじゃった。ただ、
『この畜生。罰を当てるなら当ててみよ』
と破れた醤油樽を御神殿に投込んで人参畑へ帰って来たが、帰ってからこの話をすると、それは賞められたものじゃったぞ。大将の婆さんが涙を流して『ようしなさった。感心感心』と二人の手を押戴いて見せるので、塾の連中が皆、金鵄勲章でも貰うたように俺達の手柄を羨ましがったものじゃったぞ。
   夢野久作『近世快人伝』奈良原到 上

奈良原が14、5歳というので明治4、5年の頃のことのようですが、これが櫛田神社の宮司だったのか、神祇官とか教部省とか、あるいはここらへんの中教院・小教院のひとだったのかはわかりません。
ただこの件ですごく思い出してしまう話、櫛田神社宮司家へ養子に行った関秀麿という人物。 櫛田神社へ縁づいてからは祝部波門の名前で文書などがぼちぼち出てきますが、けっきょく明治の初めぐらいに離縁されて、関秀麿に戻っています。
晩年、玄洋社の人びとがとりなして祝部家へ再縁したのかどうなのかとりあえず戻ってきているのですが、わざわざ玄洋社の人びとがとりなして、というあたり、まさか醤油樽……という、妄想。
ちなみに、関の妻(宮司家の娘さん)が櫛田裁縫専攻学校をつくった祝部安子さん、安子さんと関との間には男の子がいたものの早くに亡くなって、そして関も祝部家へ戻るもすぐ亡くなり、養子に迎えられたのが画家の祝部至善さんです。
脱線脱線。松浦のエピソードに戻ります。 威勢はいいが頭山に勝てなかった松浦のお話。

(宮川)太一郎とある暑い日、脛投げ出して話をしていると、宮川が『何といふ小さな足かい』と冷笑しつゝ面憎いことを言つた。『小さくてもこれが一番良い足だ、貴様のやうな邪魔になる肉は俺の足にはつけない。走り競べでも、脛こぢでも何でも来い、俺は負けはせぬ』と言つたら、太一郎が『斯ういふ負け嫌ひな奴はない』と笑ひ出した。さうしたら喧嘩が何より好きな松浦愚といふ太一郎の手下が、こいつやつつけてやれと思つたんだらうね、『脛こぢなら俺が行かう』と言つて掛つて来た。
   頭山満翁正伝編纂委員会編『頭山満翁正伝(未定稿)』

「喧嘩が何より好きな松浦愚」!これですよこれ。かわいいですね。
宮川の手下なのか……
宮川太一郎もおもしろいエピソードがいろいろある人物です。カーチャンみたいな。宮川はもしかしたらしょーがねーヤツを見ると世話を焼きたくなるタイプなのかもしれない。
武部小四郎一家に母屋を貸したとか、頭山に弁護士になれよとオススメしてみたりお金貸すために自分が自宅を担保に借金したとか、博多の某氏から「息子を廃嫡にしたい」なんて相談もちかけられたあげく殺人事件に発展してまとめて逮捕されたりとか、……ほかにも意味不明なエピソード含めいろいろ持ってる人物ですがとりあえず割愛。します。今日は松浦。
喧嘩が大好きな松浦、頭山と脛相撲対決です。

やがて臑コヂが始まつたかと思ふと、松浦『呀ツ』とばかり、消魂しい悲鳴を揚げて飛び上つたものだ。
   藤本尚則『巨人頭山満翁』

相手が降参ぢやといふのもかまはずに抑へつけて、グン/\こすりつけた
   田中稔・中野亨・雑賀博愛『頭山翁謦世百話』

いきなり負けた。
ちなみに、『巨人頭山満翁』では、頭山の脚が貧弱だと言ったのは松浦ということになっています。また、『頭山翁謦世百話』では、宮川・松浦ともに名前はなく「傍の者」となっています。
ところで、玄洋社には水野元直(水野疎梅)があちこちから採集した懐旧談というのがありました。明治42年に記録されたものだそうで、原本は空襲で焼失したようですが、玄洋社の機関紙『玄洋』で昭和に入ってからしばらく連載されました。
その中に、宮川太一郎懐旧談があります。

政府は福岡に事変あらんことを警戒し時の警部長寺内正員は警部巡査二三十名を引率し各所を巡邏し物色すること甚だ急なり。かゝる形勢なるにも拘はらず胆勇にして傲岸なる箱田六輔は奈良原至、松浦愚等少壮血気の士百二、三十人を率ひ日々兎狩りと称し野外に運動して止まず。
   明治42年水野元直筆記『故人直話録 宮川太一郎氏懐旧談』2

明治8、9年頃のことでしょうか。とにかくおとなしくしていないと警察に目をつけられてヤバいぜ、ということで、宮川は箱田に、矯志社から除名すると言って叱ったりしていたそうです。
おそらくこのあたりのことを脚色したのが、平井晩村『頭山満と玄洋社物語』。

矯志社の面々は兎狩と云ふ触込みで百余名が散り/゙\に城下を離れ、郊外に落合つて密談を凝らしての帰途、松浦愚の一群が肩肱張つて遣つて来ると、偶ある在所の橋の袂で、福岡分営の一隊にぴつたり出逢つた。常日頃から鎮台面が小癪に障つて居る矢先だから、松浦は冷やかな眼で同士に其と意中を知らせ、避けんとせず高歯の下駄を踏鳴らして、広くもあらぬ野の路に立はだかつた。夫と見た鎮台兵も退くに引かれず、満面朱を濺いだ年若な士官が先に立つて歩調荒く進んで来た。
『コラツ、貴様等は何故行進の途を塞ぐか』
軍人気質の一本調子に極め付けると、松浦はつか/\と士官の傍へ詰寄つた。
『何ぢや下郎! 天下の公道なら半分づゝ避けて通るが当然ぢや、不埒な…今一言吐して見い』
ぱつと下駄を後へ脱捨て居合腰に手をかけた信国の大剣は、殺気を帯びて鞘走つて居る。両人を前に立別れた兵士も矯志社の面々も片唾を呑んで騒めいた
『退き居れツ』 噛み付くやうに喚いた松浦の手に覚えの太刀の鍔音が凛と鳴つた。面喰つた士官は首を窄めて横にすつ飛んだ。態を見ろと云はぬ許りに、松浦は抜刀を提げた儘ずか/\と軍隊を掻分けて押通つて行つて了つた。
   平井晩村『頭山満と玄洋社物語』

醤油樽事件とはだいぶ印象が違います。こんな気の利いた屁理屈がパッと言えるのか。
あと、さすがに「百余名」は脚色だと思う……矯志社にそんなにたくさん社員はいません。
不平連というのはそもそも福岡藩の士卒出身者がほとんどでした。なので、福岡の人間でもないのに突然やってきて上からモノを言うような鎮台の人びとに対しては、当然よい感情など抱いていなかった、というのも背景にあったといわれています。
しかし警察だって取り締まるのがお仕事です。まず箱田が逮捕されます。その後、頭山のところへも家宅捜索が入り、大久保利通暗殺を計画しているというような書類が見つかったとか何とか。
しかし頭山、「俺が出かけているうちに勝手に上がりこんで家探しするなんて!」と怒って警察署へ抗議に行ってしまいます。すごいな。
そこへ偶然来合わせた松浦、頭山について行っていっしょに逮捕されます。

頭山松浦が武士道を楯に散々家宅捜索の不法を鳴らした果が
『実は御両君の御出がなくとも御呼びすべき筈であつたので、幸ひ今から職権を以て検束を命じます。左様御承知ください』
署長はぷいと座を起つて了つた。入交りに七八名の警官が犇々と左右を囲んだ。
『ハヽヽヽヽヽ、縛られに来たやうなものぢやネ』
『諾、この方が面倒が無くて宜いさ』
両名は顔を見合せて腹を揺つて笑つた。
   平井晩村『頭山満と玄洋社物語』

頭山翁等は急使の知らせに依つて家宅捜索の事を聞き、如何に警察とは云へ、人の留守を狙つて家宅捜索とは不埒であると、翁は其翌十一月九日社員松浦愚を連れて警察に到り署長寺内正員に談判したが、件の文書を押収せられてゐるので致方なく、遂にそのまゝ従容として縛に就いて了つた。
   藤本尚則『巨人頭山満翁』

なんだか和気藹々とした雰囲気(?)のなか無事(???)逮捕されたところですが、風雲急を告げる明治9年のお話、年が明けると鹿児島で挙兵があり、西郷隆盛挙兵の際は福岡も同時に起つと桐野利秋などと約束していた越知彦四郎らが行動を始めます。 そこで、破獄されてはかなわないので、松浦含め16人は山口の獄へ移送されることになりました。

その時は健児社の健児一同、当然斬られるものと覚悟したらしく、互いに顔を見合せてニッコリ笑ったと言う事であるが、同じ時に奈良原少年と同じ鎖に繋がれる仲よしの松浦愚少年が、護送の途中でこんな事を言い出した。
「オイ。奈良原。今度こそ斬られるぞ」
「ウン。斬る積りらしいのう」
「武士というものは死ぬる時に辞世チュウものを詠みはせんか」
「ウン。詠んだ方が立派じゃろう。のみならず同志の励みになるものじゃそうな」
「貴公は皆の中で一番学問が出来とるけに、さぞいくつも詠むことじゃろうのう」
「ウム。今その辞世を作りよる処じゃが」
「俺にも一つ作ってくれんか。親友の好誼に一つ頒けてくれい。何も詠まんで死ぬと体裁が悪いけになあ。貴公が作ってくれた辞世なら意味はわからんでも信用出来るけになあ。一つ上等のヤツを頒けてくれい。是非頼むぞ」
さすがの豪傑、奈良原少年も、この時には松浦少年の無学さが可哀そうな可笑しいようなで、胸が一パイになって、暫くの間返事が出来なかったと言う。
   夢野久作『近世快人伝』奈良原到 上

「健児社」というのは堅志社のことでしょう。武部小四郎を社長とする結社矯志社の中で、奈良原が中心となり年若の者を集め、箱田を社長に据えた結社です。
夢野久作の描きかたは、本当にたまらない気持ちにさせてくれますね。「~けになあ。~けになあ」という、ちょっと間延びしたような口調が、滑稽で悲愴感を増幅させているように感じます。
しかし忘れてはいけない。彼らはこのとき決して「少年」ではないということを……(奈良原20歳、松浦25歳)
そんなまるでのんびりしたような山口行きですが、ひとつ豪傑譚が。

路由於海君謂是天与也欲奪船走薩
   益田祐之撰「松浦愚之碑」(平尾霊園特別区「魂の碑」内、頭山満篆額・松浦到書)

「チャンス!この船奪って薩摩行こうぜ!」(意訳)
こういうところがいいんですよ。これまでの数々のエピソードからみるに、本当に言いそう。
けっきょくシージャックはできず、薩摩にも行けず、松浦は獄中病に斃れました。そこで箱田は考えた。

(箱田)六輔、其累の同志に及ばんことを慮かり、独り自ら決する所あり、同志中、松浦愚の病歿せるを機とし、一切の計画は、悉く愚と共に之を為したるが如く装ひ、之を法廷に供述し、以て其責任を一身に負ひたりしより、結局処刑は、六輔一人に止まり、他は悉く無罪の宣告を受くるに至りしなりと云ふ。
   黒龍会『西南記伝』下巻2

箱田は、大久保暗殺は松浦と2人だけで計画したのだと供述し、すべての責任を負うことにしたのです。
松浦の死後、福岡県から九州臨時裁判所へ箱田と松浦の口供書が送られていました。実際箱田は伝の通りの供述をしていたのでしょう(ただし県は箱田の供述は怪しい、としていました)。
明治10年9月18日に下った判決で、箱田のみ懲役1年、ほか14名は放免となりました。合計15名。捕まったときは16名だったのに……

君姓松浦諱愚幼字百太郎考諱九平妣古屋氏以嘉永五年二月十九日生於筑前国那珂郡高宮村家世為黒田藩士少落拓不羈頗有奇気初入就義隊後学於女儒高場乱学漸進気益豪以国士自任当是時征韓之論敗於朝物情洶洶君慨然曰時勢此如国家何乃糾合同志創矯志社歃血盟神約一心同体錬胆厲志生死不渝尋設強忍社堅志社与四方勢気相応欲以有所為既而西海風雲愈急明治七年有佐賀乱熊本秋月萩之変続起而薩南亦将動於是有司監察益密遂捕箱田六輔投獄検頭山満之家獲暗殺大久保参議密書事連君亦下獄是為明治九年十一月八日明年薩兵果起越智彦四郎武部小四郎久光忍太郎等応之先襲福岡鎮台将破獄奪同志県令大驚急移之山口獄路由於海君謂是天与也欲奪船走薩不果既而送還福岡獄獲病吏察其不能起特釈帰家病革家人曰丈夫慙死床上宜速移於屋外皆有難色君叱咤不已終逝於中庭六月二十六日嗚呼君一生行事始於奇終於奇而一片耿耿之志不可滅矣後十三年而憲法成焉公論伸焉疇昔之願至此始酬矣雖自有国会三十七年於茲朋党比周人心険悪国家将益多事君而在世忨慨扼腕憤然蹶起無疑也則知在天之霊今正磅礴祭而祷乎儻或為風雨為雷霆辟歴撃蕩邪穢而後已矣頃日旧友相議欲建碑以不朽之請予銘銘曰男児在世不成功可也惟愧名之不伝矧復死于磅礴■(片偏に戸の中に甫:ユウ)下乎雖然耿耿之志不従煙霧而滅必与日月永存以為邦家轟轟烈烈

[書き下し]
君姓は松浦、諱は愚、幼字は百太郎。考は諱九平、妣は古屋氏。嘉永五年二月十九日を以て筑前国那珂郡高宮村に生る。家は世黒田藩士たり。少くして落拓不羈、頗る奇気有り。初め就義隊に入り、後女儒高場乱に学ぶ。学漸進し気益豪たり、国士を以て自任す。当に是の時征韓の論朝に敗れ物情洶洶なるに、君慨然として曰く、「時勢此の如し、国家何ぞ乃ち糾合せん」と。同志矯志社を創り、血を歃(すす)りて神に盟し、一心同体胆を錬り志を厲し、生死を渝(ママ。偸)まざるを約す。尋で強忍社・堅志社を設し、四方と勢気相応じ、以て為す所有らんと欲す。既にして西海の風雲愈急なり。明治七年佐賀乱有り、熊本・秋月・萩の変続て起る。而して薩南亦将に動かんとす。是に於て有司の監察益密なり、遂に箱田六輔を捕え投獄し、頭山満の家を検し大久保参議暗殺の密書を獲たり。君亦連して下獄す、是明治九年十一月八日なり。明年薩兵果して起つ。越智彦四郎・武部小四郎・久光忍太郎等之に応じ、先づ福岡鎮台を襲い将に獄を破り同志を奪わんとす。県令大に驚き急ぎ之を山口獄に移す。路海に由り君謂えらく、「是天与なり、舩を奪い薩に走らんと欲す」と。果さず、既にして福岡獄に送還され病を獲たり。吏其の起る能わざるを察し、特釈して家に帰す。病革まり、家人に曰く、「丈夫床上に死するを慙ず。宜しく速やかに屋外へ移すべし」と。皆難色有り、君叱咤已まず、終に中庭に於て逝く、六月二十六日なり。嗚呼、君一生の行事、奇に始まり奇に終わる、而して一片耿耿の志は滅すべからず。後十三年にして憲法成り、公論伸ぶ。疇昔の願は此に至り始て酬ゆと雖も、国会有てより三十七年、茲に於て朋党比周し人心険悪にして、国家将に益多事なり。君にして世に在らば忨慨扼腕憤然として蹶起するは疑い無きなり。則ち在天の霊に知らせ、今正に磅礴祭して祷らんか、儻或風雨と為り、雷霆辟歴と為り、邪穢を撃蕩し而して後已まん。頃日旧友相議し、碑を建て以て之を不朽にせんと欲し予に銘を請う。銘して曰く、男児世に在て成功せざるも可なり。惟だ名の伝らざるを愧ず。矧や復た磅礴(片偏に戸の中に甫:ユウ)下に死するに于てをや。然りと雖も耿耿の志は煙霧に従て滅せず、必ず日月と与に永存し、以て邦家に轟轟烈烈たり。
   益田祐之撰「松浦愚之碑」(平尾霊園特別区「魂の碑」内、頭山満篆額・松浦到書)

6月26日に亡くなったとありますが、25日に亡くなって頭山たちには26日に知らされた、ということでしょうか。誤差の範囲だとは思いますが……
ちなみに、明治10年6月25日は数日続いた雨があがって久しぶりの晴天でした。逸話性を求めれば梅雨のあいまのひとときの日差しの中、松浦は……というほうがドラマティックじゃないですか。なんちゃって。

それにしても、「少落拓不羈頗有奇気」「君一生行事始於奇終於奇」というのがいいですね。風変わりで常識からかけ離れていて、予想もできないようなことを「奇」といいます。
おばかキャラが確立するのは『近世快人伝』以降かと思っていましたが、碑文を見るにやたら「奇」である面を強調してある点で、すでに完成していたのかもしれません。よっぽど不測の動きをする人物だったのか。
それでも「一片耿耿之志不可滅」というのが、醤油樽事件のときの、気持ちはあっても気の利いたことを言う知恵がなかったという話を思わせます。難しい理屈は説明できないけど、いちばんだいじなことはちゃんと知ってる。
碑文が書かれたのは、もはや松浦を直接知る親しい人物が頭山満だけになってしまったような時代でした。おそらく没後50年の節目に建立が計画されたものと思われます。 忘れられない人物だったのでしょう。

【参考資料】
※引用の際、旧字・俗字等は通行の字体に改めました。
※引用内の ( ) 書は筆者注。

*公文書*
福岡県越智彦四郎始処刑届
 公文録・明治10年・第142巻・行在所公文録5
 請求番号:本館-2A-010-00・公02164100
 (国立公文書館)
福岡県士族箱田六助審糾着手ノ儀上申
 公文録・明治10年・第148巻・明治10年8月~10月・征討総督府伺
 請求番号:本館-2A-010-00・公02170100
 (国立公文書館)
福岡県士族箱田六助始処断届
 公文録・明治10年・第148巻・明治10年8月~10月・征討総督府伺
 請求番号:本館-2A-010-00・公02170100
 (国立公文書館)

*定期刊行物*
明治42年水野元直筆記『故人直話録 宮川太一郎氏懐旧談』2
 『玄洋』第92号(昭和18年1月29日)
「流転の旅に終止符 先覚顕彰『松浦愚之碑』よみがえる」
 『玄洋』第65号(平成8年9月1日)

*古文書*
明治十丁丑年中日々誌
 横田(豊)文書 24 (福岡県立図書館)

*書籍*
黒龍会『西南記伝』下巻2
 博文館、明治44年
平井晩村『頭山満と玄洋社物語』
 武侠世界社、大正3年
藤本尚則『巨人頭山満翁』
 三水社書房、昭和5年
薄田斬雲『頭山満翁の真面目』
 平凡社、昭和7年
夢野久作『近世快人伝』奈良原到 上
 『夢野久作全集』7  三一書房、昭和45年
 (初出:『新青年』昭和10年6月号 博文館)
夢野久作『頭山満先生』4
 『夢野久作著作集』5  葦書房、平成7年
 (初出:『日本少年』昭和11年4月号 実業之日本社)
頭山満述『日本精神と腹』
 大洋社出版部、昭和14年
田中稔・中野亨・雑賀博愛『頭山翁謦世百話』
 皇国青年教育協会、昭和16年訂正12版
『福岡県史』第4巻
 福岡県、昭和40年

頭山満翁正伝編纂委員会編『頭山満翁正伝(未定稿)』
 葦書房、昭和56年
土井敦子『天翔る<高場乱>』
 新潮社、昭和63年
玄洋社社史編纂会『玄洋社社史』
 葦書房、平成4年
 (初出:大正6年 玄洋社社史編纂会)
永畑道子『凛―近代日本の女魁・高場乱』
 藤原書店、平成9年

*その他*
平尾霊園特別区「魂の碑」内「松浦愚之碑」
 頭山満題、益田祐之撰、松浦到書
 昭和3年9月建立
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