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幕末から明治ぐらいの福岡藩や福岡市についてごちゃごちゃ言うブログ。
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明治7(1874)年佐賀の乱に従軍した福岡士族たちの中から、三瀬口の戦闘にしたがった人びとの行動をリポートします。
初出:福岡県貫属隊時系列@佐賀の乱 2015年2月26日

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佐賀士族の蜂起に際し、福岡士族は呼応して起つという計画を立てていました。こうした動向を政府へ報告するため、穂波半太郎が上京します。
東京で穂波は、同志の山中立木と会って帰福を勧めますが、山中は札幌神社(北海道神宮)の禰宜になることが決まっていたため帰郷しませんでした。おそらくこのとき安川敬一郎にも会っていたのではないかと思われる記述が、安川の「事業略歴」にあります。安川は「政府の特命」を受けた「旧藩先輩某氏」から「今日西肥の乱に就ては幾島(幾島徳、安川の実兄。佐賀の乱で戦死)の如き最も活躍を乞はねばならぬ」と言われた、といいます。
穂波はこのとき内務省八等出仕に任じられ、内務卿大久保利通とともに九州へ出張し、現地で部隊を編制する役割を担っていました。安川のいう「特命」はこういうことなのでは?というところで、この「旧藩先輩某」=穂波なのではないかと思っているところです。

ところで、八等出仕というのがおもしろくて、これは判任官の一番上です。七等以上は奏任官。
奏任官は太政官への伺を経なければ任命できないのですが、判任官はその省庁の長官が任命できます。臨時とはいえ、国事犯として逮捕歴のある穂波をここに据えるというのは、以毒攻毒的な考えでもあったのかどうなのか。

そうして組織された福岡貫属隊は人数が判明しているところで2618名、このうち961名が大久保とともに移動する田代口出張大隊で、1657名が三瀬口出張の大隊です。編制が完了すると、穂波は内務省出仕を免じられ、田代口出張大隊の副官として従軍します。

【三瀬口出張大隊】
 大隊長心得 小野新路・三木(小野)隆助
 大隊副官心得 県運・福屋等
 大隊諸務掛 内田良五郎・上野弥太郎・貝原寛一
  第1大隊1番小隊
   小隊長 江上述直
   半隊長 橋本嘉一郎
   分隊長 淵上鯉四郎
   伍長9名・嚮導2名・器械方6名・斥候4名・銃士70名
  第1大隊7番小隊
   小隊長 杉原早視(速水)
   半隊長 柴田洪平
   分隊長 長野嘉平
   伍長4名・嚮導2名・器械会計6名・伍長兼斥候4名・銃士69名
  第2大隊1番小隊
   小隊長 越智(越知)彦四郎
   半隊長 花房庸夫
   分隊長 母里崇
   伍長8名・嚮導2名・器械方4名・斥候3名・銃士73名
  第2大隊2番小隊
   小隊長 久光忍太郎(江上述直実弟)
   半隊長 岡崎英之助
   分隊長 ―
   伍長8名・嚮導3名・器械方8名・斥候3名・銃士78名
  第2大隊3番小隊
   小隊長 杉山英三郎
   半隊長 立花震太郎
   分隊長 戸次太四郎
   伍長8名・嚮導3名・器械方4名・相図方2名・銃士88名
  第2大隊4番小隊
   小隊長 幾島徳
   半隊長 ―
   分隊長 森震志(幾島戦死後小隊長代理)
   伍長8名・嚮導4名・器械方4名・斥候4名・輜重方3名・銃士65名
  第2大隊8番小隊
   小隊長 郡季親(利、保宗。出兵せず)
   半隊長 ―
   分隊長 権藤貫一(小隊長代理)・長谷彦太郎
   伍長8名・嚮導2名・器械会計方7名・斥候4名・楽隊2名・銃士72名
  第2大隊9番小隊
   小隊長 大庭弘
   半隊長 宮川太一郎
   分隊長 ―
   伍長8名・器械方4名・会計2名・斥候7名・銃士77名
  第3大隊1番小隊
   小隊長 加藤堅武
   半隊長 桑野乾次郎
   分隊長 近松四郎
   伍長7名・嚮導2名・器械方7名・銃士78名
  第3大隊4番小隊
   小隊長 重浜勝盛
   半隊長 吉井勝馬
   分隊長 高橋道(達ヵ)
   伍長7名・嚮導2名・器械方8名・斥候5名・銃士73名
  第3大隊5番小隊
   小隊長 臼杵龍虎
   半隊長 吉安謙吾
   分隊長 大森彦九郎
   伍長8名・嚮導6名・斥候5名・銃士88名
  第3大隊11番小隊
   小隊長 村上彦十
   半隊長 青柳豊徳
   分隊長 ―
   伍長4名・嚮導4名・器械方4名・会計方2名・輜重方2名・斥候5名・銃士74名
  志摩郡在住隊
   小隊長 鷹取琢磨
   半隊長 永田清十郎
   分隊長 大野清砥
   伍長8名・肩書不明9名・会計方6名・斥候3名・銃士69名
  早良郡在住隊
   小隊長 加藤大三郎(加藤堅武義弟)
   半隊長 村上磊作
   分隊長 安田市三郎
   伍長4名・嚮導2名・器械会計方7名・斥候5名・銃士45名
  大隊・小隊番号不明
   小隊長 大島義質
    半隊長1名・分隊長1名・伍長4名・助長4名・嚮導2名・器械方8名・
    斥候2名・兵士63名
   小隊長 権藤慎五郎
    半隊長1名・分隊長1名・伍長8名・嚮導2名・器械方4名・兵士79名
   小隊長 毛利元樹
    半隊長1名・分隊長1名・伍長8名・嚮導2名・器械方4名・斥候5名・
    会計方3名・兵士67名
   小隊長 三浦砂
    半隊長1名・分隊長2名・伍長4名・嚮導2名・器械方5名・器械方手伝4名・
    会計方長2名・会計方4名・斥候5名・兵士45名
  医師46名

【田代口出張大隊】
 大隊長心得 不破豊吉
 大隊副官心得 穂波半太郎
  小隊長 舌間慎吾
   半隊長1名・分隊長1名・嚮導3名・器械方6名・会計方2名・伍長兼斥候8名・
   兵士80名
  小隊長 津田三六
   半隊長1名・分隊長1名・伍長8名・嚮導1名・斥候3名・器械会計方8名・
   兵士68名
  小隊長 明石市郎右エ門
   半隊長1名・分隊長1名・伍長8名・嚮導2名・斥候3名・器械会計方9名・
   兵士67名
  小隊長 木山喜八
   半隊長1名・分隊長1名・伍長8名・嚮導2名・斥候3名・器械方7名・兵士84名
  小隊長 笠城直道
   半隊長1名・分隊長1名・伍長8名・嚮導2名・器械方9名・兵士80名
  小隊長 久世芳麿(不破豊吉実弟)
   半隊長1名・分隊長1名・伍長8名・嚮導2名・器械会計方1名・器械方4名・
   会計方2名・斥候2名・兵士71名
  小隊長 筑紫準之輔
   半隊長1名・分隊長1名・伍長8名・嚮導2名・器械方3名・会計方3名・
   斥候4名・兵士74名
  小隊長 有田漸
   半隊長1名・分隊長1名・伍長8名・嚮導2名・器械方5名・斥候4名・兵士66名
  小隊長 吉田鞆次郎
   半隊長1名・分隊長1名・伍長8名・嚮導2名・器械方3名・会計方3名・
   斥候3名・兵士70名
  小隊長 青柳禾郎
   半隊長1名・分隊長1名・伍長8名・嚮導2名・器械方6名・会計方2名・
   斥候3名・兵士73名

三瀬口出張隊は、大隊・小隊番号が判っている隊については挙げた人数の分だけ姓名もわかっているのですが、番号不明の隊と田代口のほうは小隊長の名前しかわかりませんでした。田代口の青柳禾郎小隊の一員として従軍した久野藤次郎という人物の懐旧談によると、同小隊の半隊長は箱田六輔だったそうです。
また、田代口のほうへ従軍した県官衣非観の従軍日誌が『維新雑誌』に抄録されています。

さて、佐賀士族に呼応して起とうと計画していたわりにしっかり政府方の穂波の予定通り編隊が完了しているわけですが、つまり、政府軍につくと思わせて安全に三瀬まで行き、佐賀士族と遭遇したら鋒を逆さにしましょう、というお話ができていたもよう。しかし、三瀬口の戦闘は佐賀側の夜襲によって始まってしまいました。
この夜襲のあった日(2月22日)、お昼に佐賀側は「福岡兵の奇襲を受けた」のだといいます。それはもちろんそうで、というのは、福岡士族の計画はそもそもバレていたのだから、政府軍の一部が福岡兵に扮して奇襲をかけ、牽制に出ていたわけです。しかも政府から福岡士族に与えていた武器は、銃と弾が合っていなかったといわれています。

ところで、編隊に関わった穂波とは幼馴染で非常に親しかった人物、福岡士族の中ではリーダー格の武部小四郎が入っていません。小野・三木が大隊長なら武部も本来ここに名を連ねていてもいいはずの立場です。
武部は、佐賀と連合すること、また大久保利通の暗殺を考えていたといわれています。しかし、仲良しの穂波が大久保の手先になっている、皆は政府軍に組み込まれてしまう、というような事態を前にウンザリして犬鳴山の自邸(旧藩主の犬鳴別邸を下渡されて住んでた)に帰っちゃった、という話。
ただ、戦況や街の様子は窺っていた形跡があります。わざと外したのか、自由に動けるようにあえて外したのか、穂波と武部の意図はまったくわからないですが、田代口出張隊をみると、大隊長の不破はじめ、穂波のほか舌間、久世、筑紫、青柳、また青柳隊の半隊長であったとされる箱田など、武部と近しい人びとが目立つ気がするのです。
大久保を本気で暗殺しようと思えば……まさか……というのは妄想ですが、まあ、佐賀の乱は鎮圧され、大久保は無事東京へ戻っていきました。


佐賀暴発以前よりして我が福岡の志士は江藤に同情を表し、彼若し事を挙げなば彼を援けねばならぬとの意気があるから福岡志士の総代として郡利、大庭弘は佐賀に出向して該地の志士と会見して多少の消息は通ぜしならんと思ふ。然も大庭は脱走して帰県し、郡は彼地に拘置せらるゝ有様でした(郡利の記事参照)。それで福岡士族の態度は佐賀に応ずるとも応ぜぬとも決定せぬ中に佐賀は暴発したから、兎に角に国境守備の目的にて越智彦四郎、江上述直、杉原速水は各一隊を率ひて三ッ瀬に出兵した。此時官軍の指揮は山田顕義、野津鎮雄、井田五郎等でした。三ッ瀬に出兵せし江上、杉原の隊の一部を官軍は利用して佐賀兵に向つて発砲せしめたから、佐賀兵は福岡士族が官軍と化せしと誤解して江上、杉原の部隊に向つて其夜猛烈に襲撃したから此に端なく開戦となり、不意の事とて我隊は非常の失敗となつた。此敗報福岡各方面に屯集せる各隊に伝はるや此に士族の多数は愈々佐賀に応ぜぬ事に決したから矢野尋六郎、小野隆助、小野新路は大隊長として肥前に進軍するに至つた。
   明治42年水野元直筆記「故人直話録 宮川太一郎氏懐旧談」3
※「松本俊之助氏談」1の誤り


旧隊を編成すべきの命令に接し四百五十名を十一小隊に分ち各隊に分属せしめたり。事情此に至れるを以て箱田、宮川等の一派は名義の如何を論ぜず、実際戦闘に臨む時は銃剣を倒にして官軍に当らんとの意気は隠約の中に磅□[石偏に薄]せしなり。当時故陸軍大将児玉源太郎(当時少佐位)は福岡方面の総指揮官として来り莅み箱田、宮川等一派の挙動不穏を察し頗る警戒を厳にせり。福岡士族はかゝる不統一なりしかば、児玉は福岡士族に与ふるに往々銃器と銃丸と相合せざる物を以てせり。此事は戦闘の際に於て始めて之れを知りたり。如何に児玉が奇智を弄したるを知るに足らん。それのみならず福岡兵団佐賀封建に向ふや江上某(久光忍太郎の兄)の一小隊は三ッ瀬に宿営を張れり。福岡兵団は肩章として白布を纏ひしが、児玉は部将に命じて此白布隊二、三十名を窃に率ひ白昼佐賀兵に向ひ連発射撃をなさしむ。佐賀兵は隠に福岡兵と行動を共にすると期待せしにも拘はらず、今や我に向つて敵対の行動を取り且発砲したるを見、福岡士族の信ずるに足らざるを看破し其夜三ッ瀬の宿営に向つて逆襲せり。江上小隊長事の意外に驚きたるも此に至りては如何ともする能はず邀撃応戦せしも終に大敗に帰せり。是亦児玉に機先を制せられたるに因れり。苦肉の策遂に破れ為めに我福岡志士の素志を達するを得ざりき。
   明治42年水野元直筆記「故人直話録 宮川太一郎氏懐旧談」1


上記の松本俊之助氏談1にある「郡利の記事」が何を指すのはは不明ですが、以下のようなことが書かれていたと思われます。

筑藩福岡之士郡季親大庭弘之両士二月十二日より佐賀へ入込ミ、兼々応意之友なる佐賀旧藩士石井竹之助方江参り同家へ滞留中、同十六日の夜より兵端を開き候よし、大庭ハ十七日夜福岡へ帰着、郡ハ一旦捕縛せられしかと石井竹之助来りて是を赦し鑑札を渡しけれは、佐賀管内を無滞立出て十八日帰宅あり
   『維新雑誌』巻ノ17 明治七年甲戌記二冊之内 上


『維新雑誌』『小野隆助碑誌』には、佐賀へ偵察にでかけた郡・大庭から小野・久光へ宛てた報告書の写も入っています。

こういう経緯で戦端が開かれてしまった三瀬口の福佐両軍ですが、どのように展開していったか、時系列に並べてみます。
あ、と、その前に、地図。細かい地名が出てくるので、地図をつけます。
1枚目はGoogle Earthにマッピング、2枚目は国土地理院の基盤地図情報から切り出した地形図にマッピング。等高線ヤバい。ほんと、山岳……






時系列に並べる際使用した資料は以下の6件です。資料につけた①~⑥の番号が、箇条書きの頭の番号に対応しています。

①「福岡県貫属隊ヘト御賞賜ノ儀伺」
②「佐賀県暴動事件書類 三」
③「佐賀征討始末 二」
④「大久保内務卿 明治7年2月24日~3月1日までの鎮西出兵日記」
⑤「大久保内務卿 応援谷隊等の3月1日~2日における行動状況等の通報」
⑥「福岡県史稿 騒擾事変 二」

文字ばかりになってしまうので、適宜写真も貼ります。
現地へ行ったのはこの記事初出のときなので、撮影は2015年2月。あまり天気はよくなくて、ちょっと雨模様でした。

【2月19日】
穂波半太郎博多着、福岡貫属隊編制に従事

【2月20日】
士族数十名、賊徒の屯集を探偵

【2月21日】
月形潔、東入部・西村辺へ斥候探索のため出張
鎮台兵・福岡貫属兵、4手に分かれ進軍
夜半、第2大隊1番小隊(越知)・第1大隊7番小隊(杉原)・第1大隊1番小隊(江上)出兵

【2月22日】
第1大隊1番小隊(江上)三瀬口砲戦
第2大隊1番小隊(越知)・第1大隊7番小隊(杉原)・第1大隊1番小隊(江上)飯場村戦闘

【2月23日】
第1大隊7番小隊(杉原)飯場村斥候砲戦
金武村に1小隊(不明)を残し他の隊は飯場村守備


飯場峠へ至る福岡側の金武宿周辺。うっすらですが、福岡タワーやドーム、海の中道まで、博多湾が望めます。


峠はもうすぐ。


峠の入口。県道ですが、車は入れません。険道……

【2月24日】
第1大隊1番小隊(江上)・第2大隊2番小隊(久光)飯場村で戦闘
穂波半太郎、内務省八等を依願免職
舌間慎吾小隊・津田三六小隊・明石市郎右エ門小隊・木山喜八小隊・笠城直道小隊・久世芳麿小隊・筑紫準之輔小隊・有田漸小隊・吉田鞆次郎小隊・青柳禾郎小隊田代口出兵
第3大隊4番小隊(重浜)三瀬口出兵
2小隊(不明)金武村に迫る佐賀兵を退ける
第2大隊3番小隊(杉山)・第2大隊2番小隊(久光)・第2大隊4番小隊(幾島)三瀬口へ向かう
第2大隊9番小隊(大庭)・第3大隊11番小隊(村上彦)出兵

三ツ瀬当県貫属隊今朝進撃之者敗北致シ昨日ヨリ昨夜半マテ辛苦之処悉水泡ニ属シ遺憾千万
   「三つ瀬における敗戦に関する山田少将報告(ろ命)」



飯場峠を越えて曲渕・飯場側。

【2月25日】
志摩郡在住隊(鷹取)・早良郡在住隊(加藤大)出兵
第2大隊1番小隊(越知)水無峠先鋒
第2大隊3番小隊(杉山)半隊三瀬先鋒2度戦闘・半隊水無峠先鋒2度戦闘
少将山田顕義、三瀬口で軍議(穂波半太郎同伴)
1小隊(不明)石釜口攻撃



三瀬峠。大きいわりに気づきにくい国境石。


こちらは水無峠。
水無峠には鍾乳洞があります。行ったときは立入禁止でした。今どうなっているのかなあ

【2月26日】
第2大隊1番小隊(越知)水無峠~三瀬口2度戦闘
第2大隊3番小隊(杉山)水無峠戦闘
第2大隊4番小隊(幾島)三瀬口戦闘、幾島戦死により分隊長森が小隊長代理となる
第2大隊4番小隊(幾島→森)水無峠戦闘
第2大隊9番小隊(大庭)三瀬口戦闘
第3大隊5番小隊(臼杵)分隊小爪峠戦闘
第3大隊11番小隊(村上彦)半隊石釜口戦闘・半隊猿ヶ鼻(鬼ヶ鼻または猿落谷ヵ)戦闘
椎原口の1小隊(不明)背振山へ向かい弁天嶺で早良郡在住隊(加藤大)と合流
穂波半太郎轟木本営着、大隊副官心得拝命



小爪登山口。




石釜から胸壁を築いていたという谷の場所がわからなかった。
上は滝川谷方面、下は坊主谷方面。


山田(顕義)少将三ツ瀬口出張、同所貫属隊ヘ攻撃日時■其他進撃ノ仕方夫々手配約束等指揮ニ相成昨夜帰宿候処、如何之訳カ少将ノ差図ニ違背、今朝ニ至終ニ敗走之趣、過■月形潔も帰り模様承り候処一度ハ賊ノ台場ヲ攻取候得共間モ無被守返右台場ヘ持込候弾薬等も少々被奪候様子ニ候、元来■■之弱兵従テ纏付不申、隊長抔も散乱兵士ト分裂致候、此上援兵無之テハ金武も持切レ不■候様月形ヨリ申出候、昨日(25日)モ少将ヨリ懇々指揮致置候約束ニ背キ候様之兵士ナレハ決而頼ミニ相成不申、此体ニテハ金武持切モ無覚束、然ルニ小倉兵隊着不■城内引揚相成候テハ不都合ニ付、小倉隊着相成候マテ何共持コタヘ可申様申聞、且当貫属ニ小隊援兵トシテ出張可申ニ付猶当夜進撃候様達相成候
   「西村 三瀬口戦況に関する報知(に命)」


今朝本道ヨリ大庭弘一小隊杉山朶(英三郎)半中隊進撃、三瀬峠ノ半腹ヨリ少シ上ニテ味方ヨリ放銃シテ賊ノ戦ヲ抛ムト雖トモ敢テ不応、更ニ臼砲二発ヲ発(放)披漸ニシテ之ニ応シ銃戦場ヲ開キ今ニ輾ヒタリ、味方ハ往路ニ付セ発銃、故ニ甚落難、越知彦四郎所率ノ一小隊杉山半小隊ハ水無口ヨリ進撃、未タ三瀬口ニ着スルヤ否ヤヲ不弁、村上義善(彦十)一小隊昨夜石釜口ヲ越候所何谷トカ申処(滝川谷または小爪谷か)ニ胸壁ヲ構ヘ遂ニ行路ヲ被絶更ニ石釜マテ引取同所ヲ防戦罷在候
   「月形潔 三瀬口戦地報告(は命)」


【2月27日】
第1大隊1番小隊(江上)半隊三瀬間道抜刀接戦・半隊井原山戦闘
第1大隊7番小隊(杉原)水無峠戦闘
第2大隊2番小隊(久光)三瀬間道所々攻撃、先鋒と合兵
第2大隊8番小隊(郡代理権藤)水無峠戦闘
第2大隊9番小隊(大庭)三瀬口戦闘
第3大隊4番小隊(重浜)三瀬口昼夜戦闘
第3大隊1番小隊(加藤堅)三瀬峠2度戦闘
志摩郡在住隊(鷹取)三瀬峠・井原山戦闘
椎原口の兵(不明)鬼ヶ鼻を奪取し矢筈峠を抜く
夜、三瀬口・椎原の兵(不明)井出村(井手原ヵ)に進撃し三瀬村に進む
大島義質小隊・権藤慎五郎小隊・毛利元樹小隊三瀬口出兵
炊場を曲渕に移す



井原山方面へ向かう登山口。

早暁ヨリ加藤堅武之隊ヲ以三ツ瀬峠進撃、終日苦戦スト雖モ賊軍堅ニシテ峠九歩ニ至リテ抜コト得ス、同夜十二時重濱勝盛小隊大庭弘ノ半隊ヲ合併シ賊塁ノ虚ニ乗シ三ツ瀬ノ峠同刻ニ乗落シ、今程(28日)北方山路要所ヘ追々相加ル援兵都合三小隊ヲ以テ備ヲ立置キ護衛罷在候
   「大庭弘 加藤隊の三ツ瀬口戦地報告」


【2月28日】
第3大隊5番小隊(臼杵)矢筈峠・小爪峠戦闘
第3大隊11番小隊(村上彦)矢筈峠戦闘


椎原峠。

筑前福岡ニ於テ分派兵隊ヲ引卒シ同国椎原口江出張スヘキ命ヲ奉シ同日正午十二時陸軍少佐古川氏潔陸軍大尉三戸頼武ノ二人ヲ同道シ福岡ヲ発シ椎原村ニ至リ直チニ同国久保山峠絶嶺ニ登リ近傍地形ヲ略観ス、此時矢筈峠鬼ヶ鼻脊振等ノ諸嶺悉ク我有トナリ今朝官軍井出村ノ賊ヲ撃退ケタル旨伝聞ス、且賊久保山村ニ屯スル由告来ル則チ大阪鎮台分派兵第十大隊第三中隊小笠原大尉ニ令シテ久保山ニ進兵セシメ又福岡県貫属兵ニ令シテ一小隊ハ諸嶺ノ哨兵ニ充テ残余ノ兵ハ休憩セシム
   「高島少佐 高島少佐の椎原口出張届」


【2月29日】
第3大隊1番小隊(加藤堅)・第2大隊4番小隊(幾島→森)・1小隊(不明)三瀬峠に展開

【3月1日】
第3大隊1番小隊(加藤堅)三瀬滞陣
水無峠の3小隊(不明、杉原・権藤貫隊等ヵ)本営に達す
第2大隊3番小隊(杉山)・第2大隊2番小隊(久光)・第2大隊4番小隊(幾島→森)三瀬口守備
三浦砂小隊三瀬口出兵

【3月2日】
福岡へ帰還

【3月3日】
第2大隊3番小隊(杉山)・第2大隊2番小隊(久光)・第2大隊4番小隊(幾島→森)福岡へ帰還

其県貫族隊総テ福岡表ヘ引纏メ銃器弾薬取調之上追而何分之指揮可相待候也
   「福岡兵引纏メノ達」


2月22日に始まった三瀬口の戦闘は同月28日の三瀬峠の戦で一応の終結をみて、3月3日には皆帰還しました(田代口出兵の不破大隊は3月5日帰還)。

【戦死者】
  幾島徳(第2大隊4番小隊長、2月26日三瀬峠)
  和田謹吾(第2大隊2番小隊<久光>斥候、2月24日飯場村)
  矢柄到(第1大隊1番小隊<江上>銃士、2月26日三瀬峠)
  樋口等(第2大隊4番小隊<幾島>銃士、2月26日三瀬峠)
  前田前(第2大隊4番小隊<幾島>銃士、2月26日三瀬峠)
  岸本淀(第2大隊4番小隊<幾島>銃士、2月26日水無峠負傷、3月3日病院で死亡)
  近藤政次(第2大隊9番小隊<大庭>銃士、2月27日三瀬峠)
  蓑原岩吉(第3大隊5番小隊<臼杵>銃士、2月26日小爪峠)
  浜地蕾五郎(第3大隊5番小隊<臼杵>銃士、2月26日小爪峠)
  川原甚蔵(夫卒)
・「福岡県貫属隊ヘト御賞賜ノ儀伺」                 
・「福岡県夫卒ニテ佐賀県賊徒征討ノ節戦死候川原甚蔵標石建立伺」   
・『東京日日新聞』(明治7年3月29日)                



戦後のちょっとおもしろい話。

小隊長として出兵した越知彦四郎の颯爽たる姿にすっかり惚れ込んでしまったのは大隊副官の福屋等。かっこいい越知に、ピストルをあげたい!と言い出します。しかし、越知は福屋の申出を断り、
「お嬢さんをください!」
この逸話は『西南記伝』に載っていたものですが、原文は「アンタノシャンシャンバツカワサイ」とルビが振られていました。両者の関係からして越知が福屋を「アンタ」と呼ぶのはまずありえないはずなのですが、このルビも込みでおもしろい。
福屋は快諾。越知は福屋のお嬢さんと結婚し、芳麿という男の子をもうけました。
しかし芳麿は明治12年に2歳10ヶ月で亡くなり、越知家は彦四郎の実兄井土汲孜の次男誠之助が養子に入って継ぎました。

第2大隊1番小隊に斥候として従軍した大畠太七郎。
三瀬で朝倉尚武率いる佐賀兵に取り囲まれ、絶体絶命のピンチに陥ります。さて、大畠は何をしたかというと……
提げていた大瓢簞を振り回して歌い踊り始めたのです。
佐賀兵、コイツなんかヤバい奴かもしれんと思って、大畠はまんまと逃げおおせたというより、むしろ追い返されたそうな。
とはいえ大畠、三瀬峠の戦では重傷を負っています。胸を撃たれて銃弾が身体の中に残ってしまう。医者は麻酔をかけようと言いますが、大畠はいらない!といってそのまま手術を受けたという。豪胆。舌間慎吾は大畠をとても気に入っていたそうです。



こちらは3月29日付『東京日日新聞』
『維新雑誌』仮名垣魯文『佐賀電信録』にも収録されているのだけれど、死傷者が掲載されています。その戦死者の中に

   同廿七日三ツ瀬峠ニテ戦死
      二番大隊九番小隊 宮川夥一郎


宮川太一郎の間違い。あと死んでない。
ほかにも、負傷した占部龍吾が死者のほうに入っていたりなど、錯綜ぶりがすごいです。
この報道、最初に示したとおり戦争も終わった3月末に出ているのですよね。宮川本人がこの記事を目にする可能性だってあるわけです。俺死んでねーし






【参考資料】
※引用の際、旧字・異体字は通行の字体に改め、また読点・改行は適宜補いました。
※引用中の( )書は筆者註。


*公文書*
内務省職制及事務章程
 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07090010200
 単行書・官符原案・原本・第7(国立公文書館)
三つ瀬における敗戦に関する山田少将報告(ろ命)
 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10072002900
 明治7年2月及至3月 軍事日記 陸軍第1局 第1(防衛省防衛研究所)
西村 三瀬口戦況に関する報知(に命)
 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10072003100
 明治7年2月及至3月 軍事日記 陸軍第1局 第1(防衛省防衛研究所)
月形潔 三瀬口戦地報告(は命)
 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10072003000
 明治7年2月及至3月 軍事日記 陸軍第1局 第1(防衛省防衛研究所)
大庭弘 加藤隊の三ツ瀬口戦地報告
 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10072009600
 明治7年2月及至3月 軍事日記 陸軍第1局 第1(防衛省防衛研究所)
高島少佐 高島少佐の椎原口出張届
 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10072011500
 明治7年2月及至3月 軍事日記 陸軍第1局 第1(防衛省防衛研究所)
福岡兵引纏メノ達
 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07060203200
 記録材料・佐賀征討始末・乾・外史本課(国立公文書館)
大久保内務卿 明治7年2月24日~3月1日までの鎮西出兵日記
 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C10072011200
 明治7年2月及至3月 軍事日記 陸軍第1局 第1(防衛省防衛研究所)
大久保内務卿 応援谷隊等の3月1日~2日における行動状況等の通報
 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10072011300
 明治7年2月及至3月 軍事日記 陸軍第1局 第1(防衛省防衛研究所)
福岡県史稿 騒擾事変2(明治6・7年)
 内閣文庫・和書
 請求番号:府県史料福岡0024(国立公文書館)
佐賀征討始末 二
 公文録・明治7年・第296巻・佐賀征討始末2
 請求番号:本館-2A-009-00・公01319100(国立公文書館)
佐賀征討始末 三
 構文録・明治7年・第297巻・佐賀征討始末3
 請求番号:本館-2A-009-00・公01320100(国立公文書館)
佐賀県暴動事件書類 三
 単行書・佐賀県暴動事件書類3
 請求番号:本館-2A-033-09・単01167100(国立公文書館)
福岡県夫卒ニテ佐賀県賊徒征討ノ節戦死候川原甚蔵標石建立伺
 公文録・明治8年・第144巻・明治8年9月・内務省伺3
 請求番号:本館-2A-009-00・公01528100(国立公文書館)
福岡県貫属隊ヘト御賞賜ノ儀伺
 公文録・明治9年・第264巻・佐賀台湾両役賞典録1
 請求番号:本館-2A-010-00・公01998100(国立公文書館)
佐賀騒擾ノ際福岡県貫属隊々長不破豊吉外一名ヘ交付ノ金員棄捐処分ヲ充ス
 太政類典・第5編・明治14年・第35巻・理財・勘定帳
 請求番号:本館-2A-009-00・太00810100(国立公文書館)

*新聞・雑誌等*
『東京日日新聞』第647号
 明治7年3月29日
山中立木「旧福岡藩事蹟談話会筆録」
 『筑紫史談』第38号(大正15年8月30日)
 ※福岡県文化財資料刊行会 昭和48年覆版
原田街「遺品に溢るゝ越智彦四郎先生の気魄」
 『玄洋』第76号(昭和16年9月15日)
明治42年水野元直筆記「故人直話録 宮川太一郎氏懐旧談」1
 『玄洋』第91号(昭和17年12月15日)
明治42年水野元直筆記「故人直話録 宮川太一郎氏懐旧談」3
 ※「松本俊之助氏談」1の誤り
 『玄洋』第93号(昭和18年2月25日)
明治42年水野元直筆記「故人直話録 久野藤次郎氏の話」
 『玄洋』第99号(昭和18年8月15日)

*書籍*
神奈垣魯文『佐賀電信録』下
 名山閣、明治7年
黒龍会編『西南記伝』下巻2
 博文館、明治44年
安川敬一郎「事業略歴」
 (松本健次郎『撫松余韻』昭和10年 所収)
内野冨士男「小野(三木)隆助碑誌」昭和52年
『維新雑誌』巻ノ17 明治七年甲戌記二冊之内 上
 (『新修 福岡市史』資料編近現代1 平成24年 所収)

*地図*
国土地理院基盤地図情報
 ○最新データ
   ・測量の基準点
   ・行政区画の境界線
   ・標高点
   ・水涯線
   ・市町村の町若しくは字の境界線及び代表点
   ・街区の境界線及び代表点
   ・区域:493052
       493061~493063
       493071~493073
       502947
       503001~503003
       503010~503013
       503020~503023
       503030~503033
       503041~503043
       503060
 ○数値標高モデル(10mメッシュ<標高>)
   ・区域:4929~4930
       5029~5031
       5130
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