忍者ブログ
幕末から明治ぐらいの福岡藩や福岡市についてごちゃごちゃ言うブログ。
[3]  [6]  [5]  [4]  [2]  [1
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

明治10(1877)年3月28日未明、西南戦争に呼応して福岡士族が挙兵した通称「福岡の変」は、公的な記録上は「福岡暴動」「福岡士族暴動」「福岡県士族暴挙」「福岡県騒擾」などと呼ばれています。



 初出:「4月1日といえば!」2012年4月1日
    「彼岸土居の戦」2014年4月2日
    「彼らの言いぶん」2015年4月1日

 ※写真はクリックすると別窓で大きくなります。










「福岡の変」に関する資料で最もまとまっているのは、清漣野生(江島茂逸)『明治丁丑福岡表警聞懐旧談』で、原本は戦災で焼失したものの、草稿が九州大学図書館の江島文庫に入っており、また焼失前に筆写されたものが活字化されています。
この江島『懐旧談』は、明治41年に宮川太一郎が内容を確認した上、翌年玄洋社へ送られました。玄洋社は江島による執筆と並行して、水野疎梅にも事蹟調査をさせていたようで、明治40~42年には宮川ほか郡利(保宗)や川越余代(旧名吉田震太郎)、松本俊之助といった関係者から寄せられた懐旧談をまとめています。水野の集めたものは戦前に玄洋社が発行していた機関紙『玄洋』「玄洋社記録資料」として連載されました。
とはいえ、個々の回顧を一人の人物が編集した場合、目的や方針によってなんとなく小説くさくなってしまうのはどうしようもない問題で、とくに江島『懐旧談』はおもしろい読み物です。おもしろいんですよ、読み物としては。
そういうわけで、気分を変えて公文書を眺めてみよう、というのが本記事です。

挙兵の参加者は、「福岡県越智彦四郎始処刑届」(国立公文書館蔵)の「賊徒人名簿」によれば、564名。内訳は、
 捕縛:110名   自首:325名   戦死:47名(姓名不詳10人を含む)
 脱走:35名    捕縛・山口県預:47名

捕縛110名には、斬罪となった越知彦四郎久光忍太郎加藤堅武村上彦十が含まれます。同じく斬罪となった武部小四郎は、上記4名の処刑後に捕縛されたので、このリストではまだ脱走35名の中に入っています。
これとは別に、武部小四郎脱走に関わったとして6名が捕縛されています(のち免罪3名・放免1名)。この中には女性も含まれています。どこにでも女傑はいるモンだなあ

「福岡の変」の首謀者とされているのは、斬罪となった5名。中でも筆頭とされるのは越知で、西部の人数を率いて福岡城内の鎮台分営を襲撃しました。もう一人のリーダーと目されるのが武部ですが、武部は挙兵にあまり気乗りしておらず、集合に遅刻(しかも行方をくらまそうとしていたのを無理やり見つけ出されて連れてこられた)した挙句その場で解散を宣言し、そこから1ヶ月以上逃亡します。武部が率いるはずだった東部の人数は、越知等に合流する者、ぐるっと迂回して西郷軍に合流する者などが出ました。武部は挙兵ではなく言論活動に活路を見出そうとしていたのかもしれません。民権運動初期の結社矯志社でみんなにレポート書かせたり、集思社の『評論新聞』を定期購読していたりしました。

さて、鎮台分営の襲撃に失敗したあと、越知隊は大休山に隠れて態勢を立て直したあと曲渕に移り、三瀬峠を越えたのち脊振山の麓を通り田代宿まで移動します。そこで隊を2つに分け、秋月を目指すことになりました。
舌間慎吾(武部隊からの合流)、村上彦十、久世芳麿、月成元雄、大畠太七郎らの率いる隊は四三島を経て馬市に出て秋月に向かうルート、越知らの本隊は松崎宿を迂回して阿弥陀峰を通って秋月へ向かうルートを取ります。
しかし4月1日、舌間隊は乙隈の彼岸土居で官軍に包囲され壊滅しました。
宝満橋のたもとには、戦のあったことを示す看板が立てられています。



「彼岸土居古戦場」
明治十年(一八七七)四月一日、明治新政府に不満の旧福岡藩士の一部百五十名は、轟警察署(鳥栖市)を襲ったが失敗し、秋月の党と合流するため秋月に向う途中、旧御原郡乙隈村(乙隈)彼岸土居(この付近)で昼食の為休んでいた。
その時、松崎通りの往還(現県道)を福岡から熊本に輸送する弾薬等を積んだ車、数十輌が通過するのを見つけ、これを奪おうとした。政府軍はそのことを予期して、近くまで来ていた久留米の一個中隊と巡査隊六十名は、たまたま小倉からの冷水峠を越え、木葉(熊本県)に向かっていた広島鎮台一個中隊に連絡した。広島鎮台兵は丸町村より西小田村、津古村に廻り、横隈村の井ノ浦溜池付近に陣をとった。
久留米から来た鎮台兵と巡査隊は、干潟村側の往還より夜須川(草場川)の新井手の上に注いでいる三国用水(冬期には水がない)に陣をしき、残党めがけて発砲した。
残党は蜘蛛の子を散らすように逃げ、主力は横隈村隼鷹神社の北方八竜付近に逃げて、井ノ浦溜池付近の広島鎮台兵との挟撃にあい、その場にたちまち三十余名が戦死したという。ここの戦でその外遁走中に討ち取られた者五名、捕縛十名余、自首七名、残りの者は秋月の方へ遁走したといわれている。
昭和五十五年二月   小郡市教育委員会 小郡市郷土史研究会     

看板には「三十余名」が戦死したとありました。
江島『懐旧談』には32名が挙げられています。『福岡県騒擾記事 全』(国立公文書館蔵)には「賊徒凡四十名全ク即死」とあり、これと先述の「賊徒人名簿」とを照らし合わせると、一致する人物は20名。12名はみ出る……
「賊徒人名簿」で姓名不知とされた10人が全員ここで死んだものだとしても2名はみ出る……

【照らし合わせ】
「賊徒人名簿」 江島『懐旧談』 『福岡県騒擾記事 全』

久世芳麿
 有(戦死) 有(乙隈村で自刃) 有(討取)
舌間慎吾
 有(戦死) 有(乙隈村で討死) 有(討取)
大畠太七郎
 有(戦死) 有(乙隈村で討死) 有(大畑太七郎と表記、討取)
江上述直
 有(戦死) 有(乙隈村で討死) 有(討取)
泊伴二郎
 有(戦死) 有(泊伴次郎と表記、横隈村で自刃) 
林辰巳
 有(戦死) 有(三沢村で自刃) 
能美重固
 有(戦死) 有(三沢村で自刃) 
月成元雄
 
有(戦死) 有(乙隈村で討死) 
吉井勝馬
 有(戦死) 有(横隈村で戦死) 
力丸豪雄
 有(戦死) 有(力丸嘉一郎と表記、横隈村で戦死) 
中村乕吉
 
有(戦死) 有(中村虎吉と表記、乙隈村で戦死) 
吉安謙吾
 有(戦死) 有(横隈村で戦死) 
大村徹七
 有(戦死) 有(大野徹一と表記、横隈村で戦死) 
田中円
 有(戦死) 有(田中傳と表記、横隈村で戦死) 
黒田平六
 有(戦死) 有(乙隈村で戦死) 
服部正規
 有(戦死) 有(服部正已と表記、乙隈村で戦死) 
母里良度
 有(母里良業と表記、戦死) 有(横隈村で戦死) 
樋口三一郎
 有(戦死) 有(乙隈村で戦死) 
江上清
 有(戦死) 有(横隈村で戦死) 
石川邊
 有(石渡邉と表記、戦死) 有(大刀洗川辺で自刃) 
石部敬吉
 無 有(上古賀村で戦死) 
高村茂三
 無 有(乙隈村で戦死) 
野間温次郎
 無 有(乙隈村で戦死) 
安村惣一郎
 無 有(横隈村で戦死) 
原筧
 無 有(横隈村で戦死) 
佐野与十郎
 無 有(横隈村で戦死) 
佐野圓太
 無 有(乙隈村で戦死) 
中村狂太郎
 無 有(乙隈村で戦死) 
水野彦四郎
 無 有(乙隈村で戦死) 
水野乙吉
 無 有(乙隈村で戦死) 
水野巴
 無 有(乙隈村で戦死) 
簑原秀實
 無 有(干潟村で戦死) 

 
乙隈のようす


彼岸土居

越知たちが舌間隊の壊滅を知ったのは秋月に着いてからでした。
ところで、秋月に向かう途中越知たちは官軍へ弾薬を補給する巡査隊と遭遇していました。これを率いていた曹長は岡山出身で、越知らに捕縛されますが、吉田震太郎(のち川越余代)はこっそり彼を逃がそうとしました。曹長は中野の好意に謝し、もし自分が死んだら、故郷の母へ届けてほしい、と中野へ守り袋を渡しましたが、逃げることはしませんでした。しかし。曹長は越知や中野が斥候に出ている間に、逸った兵士によって殺されてしまったのです。中野から話を聞いた越知は涙を流し、戦が終わったら曹長の故郷へ行って詫びよう、と守り袋を預かりました。挙兵は失敗、越知は斬罪となります。守り袋はどこへ行ってしまったのか……中野は、ただその曹長が岡山出身である、ということだけは覚えていたそうです。
……という逸話があるのですが、数年前この曹長のご子孫のお話が岡山だったか中国地方の新聞に載ったのを見かけて、おお本当にそんな人物がいたのだと感動して記事をプリントアウトしたはずなのですが、失くしてしまいました。悲しい。もう何年何月の何新聞の記事だったかも思い出せない。もしお心あたりのかたがいらっしゃったら教えてください。
ぶっちゃけた話、こういう逸話はどの程度信憑性があるのか……とわりと疑ってかかるヘキがあるので、本当にうれしかったんですよ。

そういうことで、秋月に入った越知隊も官軍に包囲され敗走、いくつかのグループに分かれて各々北上しますが、それぞれ別の場所で捕縛され、福岡へ送られました。
取調べでは、政府への不満が爆発しています。
挙兵に際して作成された檄文には、

夫れ政府の責任たるや国民の幸福を保全するにあり。然りしかして我が帝国政府は不幸にして、二三の権臣要路に当り、上天皇陛下の英明を欺罔し下人民が、疾苦を顧みず言路を壅塞し、愛憎を以て黜陟し苛税重斂至らざる所なく、唯一朝の利害に眩惑し、万世不抜の天理に逆ひ人道に戻る。実に売国の賊と云わずして何ぞや。我等拙愚を顧みず、大に信義を天下に明らかにし国家の蠹害を除却し、同胞三千余万の康寧を祈らんとす。故に斯の檄文を有志各位に伝す。冀くば国民の義務国家の衰退を座視するに忍びざる微衷の在る処を了察あらん事を。
・清漣野生(江島茂逸)『明治丁丑福岡表警聞懐旧談』
・「福岡県越智彦四郎始処刑届」          

とありました。ただ、これは官憲の目が厳しかったので頒布することはできなかったとのこと。
檄文を執筆した八木和一は、慶応3(1867)年のイカルス号事件で捕まった八木謙斎のことです。博識で事務能力に優れた人物だったといわれています。
八木は越知らとともに秋月を逃れたあと椎木村で捕縛され、除族・懲役10年という斬罪の次に重い刑に処され神戸の監獄に入りましたが、恩赦で出獄し、兵庫県職員となっています。その後栄転の予定もあったそうですが、明治17年に病死しました。

話が逸れました。取調べのこと。
檄文にある「国家の蠹害」について、首謀者の人びとはどんなことを考えていたのか、口供書を見てみましょう。

越知彦四郎(明治10年5月1日除族・斬罪)
 罪状:朝憲ヲ憚ラス党与ヲ募リ兵器ヲ弄シ官兵ニ抗シ逆意ヲ逞スル科
 越知が考えていたこと(口供書より要訳)
政府は開化政策に汲々としているが、それは道理に悖り人民の望むところに反しており、怨嗟の声が高まっているのを感じていた。
国を憂えるものは建言をおこなうのがよいと思う。しかし大臣らが建言を採用したという話は聞かないし、また自分のようなものが建白書など出したところで容れられるはずがない。そこで九州中の有志が連名で提出すればどうかと思い、久光忍太郎とともにまず熊本へ赴き、敬神党の加屋霽堅らと会談した。加屋らも自分たちと同意見だったので、それから鹿児島へ向かってはじめ和田八之進・川端伊右衛門らと話し合い、ここでも同意を得た。しかし西郷隆盛・桐野利秋らは建言に採用の見込みがないこと、国家危急のときは一死をもって尽すべきことを説いたので、自分は西郷らに同意した。
その後、樺太千島交換条約があり、財政難と不適切な施策とが続き、嘆かわしく思った。
 まとめ
征韓論の敗北・樺太千島交換条約

久光忍太郎(明治10年5月1日除族・斬罪)
 罪状:越智彦四郎ノ逆意ヲ佐ケ衆ヲ集メ兵器ヲ弄シ官兵ニ抗スル科
 久光が考えていたこと(口供書より要訳)
政府の施策が的外れであるために人民は服従しない。こうした不適当な政策が出るのも2、3大臣の尸位素餐によるものである。
台湾出兵でいたずらに国庫と人民を損なった挙句ようやく手に入れた土地は安い価で還付し、江華島事件では朝鮮の罪を問わないといい、豊かな樺太を不毛の千島と交換し、また財政難については海関税法の改正をやるといっておこなわず、それでいてみだりに増税を実施し、さらに人材登用には愛憎をもってし、賞罰も不明瞭である。
島津久光は三条実美によって天皇が惑わされていると建言したが、三条にも島津にも関係なく政府の失態は続いた。
越知とともに九州の有志の連名で建白書を提出することを考えていたが、西郷・桐野らがそれは無益というのに同意し、建言は思い留まり、危急のときは一死をもって国に報いるという彼らの説にしたがった。
 まとめ
台湾出兵・江華島事件・樺太千島交換条約・関税

村上彦十(明治10年5月1日除族・斬罪)
 罪状:越智彦四郎ノ逆意ヲ佐ケ兵器ヲ弄シ官兵ニ抗スル而已ナラス懲役場ニ乱入シ罪人ヲ解放セシムル科
 村上が考えていたこと(口供書より要訳)
樺太と千島を交換し、島津久光・板垣退助らの建言を採用せず、また海関税法は不適当で嘆かわしく思っていたが、同志をまとめあげる力のある者がおらず、どうしたらいいかと憂えていた。
かねてから西郷のことは慕っていたが、舌間慎吾が鹿児島探索に行ったとき有事の際は共に起つと約束したというので、西郷・桐野のあとについていけば志を遂げられると嬉しく思った。
3月8、9日頃に友泉亭で越知らと会議を開いたが、樺太千島交換条約の不当、海関税法の改正、板垣復職、島津建白の採用のことなどを建言しようという者がいれば挙兵しかないという者もおり、議論はまとまらず終わった。20日の会議でもまとまらず、大隊長を選んで今後はその命令に従うことで合意したと、自分の代理で出席した者から伝え聞いた。
 まとめ
樺太千島交換条約・関税

加藤堅武(明治10年5月1日除族・斬罪)
 罪状:越智彦四郎ノ逆意ヲ佐ケ兵器ヲ弄シ官兵ニ抗スル而已ナラス民家ニ放火セシムル科
 加藤が考えていたこと(口供書より要訳)
国家の失態と財政難を憂い、すぐれた人物に応じて挙兵することを越知・久光らと誓った。

武部小四郎(明治10年5月3日除族・斬罪)
 罪状:朝憲ヲ憚ラス党与ヲ募リ兵器ヲ弄シ官兵ニ抗シ逆意ヲ逞スル科
 武部が考えていたこと(口供書より要訳)
板垣退助の民権論に共鳴し矯志社・堅志社を設立したが、板垣が参議に復職したので失望した。
台湾出兵の不始末、海関税・不平等条約改正の不当など政府の失態を憂えていたが、政府は建言を容れないので、民権拡張にかこつけて人を集め、時機をみて挙兵することを考えていた。
 まとめ
台湾出兵・関税・不平等条約

具体的な話はなかった加藤。
加藤は、「福岡の変」挙兵直前まで戸畑で鉱山開発をやろうとしていたようで、捕縛後の口供書も住所は戸畑になっています。3月初めに義弟の大三郎が不穏な行動を取ったとかで、そのあと久光に福岡へ呼び戻されて、それで挙兵した流れ。久光といっしょなら何かしようか、というぐらいだったのかもしれない……

外交政策に敏感なのは福岡という外国が近い土地柄のためか。
敬神党や秋月党に対しては時期尚早を唱えて本当に西郷が起つまで動かなかった福岡士族ですが、敬神党や秋月党とは挙兵する理由が違ったのかもしれない。廃刀令とか秩禄処分とか、なんかちょっと違ったのかもしれない……
久光と武部が台湾出兵に批判的であるというのはちょっとおもしろくって、武部なんかとはめちゃくちゃに親しい穂波半太郎は、むしろ九州で義勇兵を集める活動なんかしていたんですよね。西南戦争に参加した人物というところでいうと、中津の増田宋太郎も義勇軍のほうに関わっていたもよう。
穂波と武部たちが決定的に違ってしまったところは本当にあったのか、あったとしたら何なのか、ということをずっと考えているのですが、こんなところに垣間見るとは思わなかった。です。ウン……

久光・村上の供述に出てきた島津久光・板垣退助の建言というのは、明治8年10月の建言ではないかと思われます。内容は三条実美弾劾で、12日に提出された板垣退助の建言は参議と各省庁長官の兼務をやめて立法・行政を分離すること、そのために三条をどうにかしないとねーというもので、これを受けて19日に提出された島津久光の建言というのも、三条をどうにかしろという話。
また、村上の供述あった島津建白というのは、明治5年6月28日提出(翌年6月22日註釈)のものを指すかもしれません。これは14ヶ条からなるもので、

1.天皇は華士族中より選抜した質実剛健な人物を師とし皇国固有の学問を修めること。
2.万世一系の皇統を維持すること、西洋的価値観の流入を止め国是を定めること。また政府の朝令暮改に対する叱責。
3.洋装を禁じ旧法による服制を定めて身分を明確にすること。
4.洋学の廃止、学制の廃止。また宗教行政の混乱に対する叱責。
5.人材登用の失敗に対する叱責。
6.内地雑居や外国人との婚姻への反対。
7.西洋一辺倒の軍制・法制への反対。
8.四民平等への反対。
9.節義を重んじ誠実を尊ぶこと、利欲・詐術を退けること。
10.家族制度の崩壊を危惧し、また身分違いの婚姻を禁止すること。
11.広く庶民に諮り、また建言の上達につとめること。
12.賞罰を厳格におこなうこと。また刑法を旧に戻すこと。
13.税を軽減すること。
14.節倹につとめること。

といった内容(要訳)。ここまでかたよった復旧はたぶん同意を得られるものではなかったろうなあ、と思います。洋装してるひとも洋学やってるひとも挙兵した中にはいるし、ちなみに、福岡で最初に建てられたキリスト教会はこの挙兵で神戸に収監された人びとが招いてつくっているんですよね。身分の問題も、久光副官の下に加藤隊長なんて、一発アウトになっちゃいます。
そういうわけで、最終的に檄文や口供には「上朝廷ヨリ下府県ニ至リ登庸其人ニ非ス」(島津、明治6年6月註釈)「賞罰愛憎ニ出ツ言路壅蔽困苦告ルナシ」(板垣ほか、明治7年1月「民撰議院設立建白書」)「実美事ヲ左右ニ託シ(中略)陛下ノ聡明ヲ眩惑シ奉リ」(島津、明治8年建言)ぐらいが引用されて、また檄文の「苛税重斂至らざる所なく」「苛令重斂人心疑懼怨懟ヲ抱キ」(島津、明治8年建言)をふまえた感じではないかと思います。

最後に、首謀者5人の辞世と、明治22年に書かれた招魂碑の碑文をご紹介します。

   越智彦四郎辞世
    咲けば散る花のためしにならふ身は
      いつか誠の実をむすぶらむ
    あら嬉し心の月の雲はれて
      死出の山路も踏み迷ふまし
   久光忍太郎辞世
    とふ人も絶えて渚の捨小舟
      浮くも沈も波のまにまに
    よし人はと言へかく言へ天地に
      恥ちぬ心は神そ知るらむ
    かねて身はかくなるものと知りなから
      別れにあはぬ母の恋しき
   村上彦十辞世
    あたなりと人な咎めそ山桜
      散りてののちの赤き心を
   加藤堅武辞世
    咲くも花散るも花なり今更に
      浮世にのこすことのはもなし
    尽くすほと尽きぬ心は死してなほ
      浮世をしのふ種となりなむ
    この春は世にふく風のさわかしく
      つほみなからの花も散るかな
   武部小四郎辞世
    世の中よ満つれは欠くる十六夜の
      つきぬ名残は露ほともなし

辞世というのは、これから生きていく家族、友人に宛てて詠むのだそうです。最後にお母さまを思い出した久光が切ない。




千代松原招魂碑
吾県越智武部久光舌間等之挙兵也将値薩隆盛与官軍抗戦之日亡何越智諸士敗而所禽斬矣間者与彼徒曾親善者来謁余謂曰嚮曰朝廷遣使於韓韓人答詞不遜西郷及一二臣慍受国辱廷争請往而責譲之衆議不協竟逸官去江藤氏固執其議至以作乱明治七年佐賀之役諸士頗請調停以宥其罪而朝官不可江藤氏敗後請又与西郷桐野等通与四方従遊士交縦臾弗己西郷以謂殊任事者抱蔵行蠹厭廃己也太甚十年二月将詣闕下抗疏而途所扼掣朝廷遽降以征討之命諸士謀曰西郷氏当維新之際固有丕績名爵倶崇海内人所推冤抑沈痛以至此且熊本山口秋月之乱相続不已者豈曰非民人怨痛之所致乎今躑躅中道志願不能伸連移時恐有隕命不如速赴東京而諌奏焉彼若不遂志則我輩成之乃急募士得六百余人皆曰以此衆有進必所沮遏何不襲官軍之不意然後発也於是三月廿八日昧明襲公庁及分営在城者而事卒不済而死焉彼等相議曰彼之暴挙罪固不可辞然患天下之事欲皇張国張義気勃々不堪憤踊済与否委之命奮進致身苟不顧死其操切激昂寧可泯歿乎乃請亨祀于招魂場官允可因建石記姓名又将刻碑文以著公上寛恕之恩俾後世知志所存不可以区々論矣敢請余諾即紀客言如此
  明治廿二年十一月建之     瀧田懋吉撰・関秀麿書 

碑文の書は関秀麿。関は一時櫛田神社宮司祝部家へ養子に入り、祝部波門とも名乗りますが、維新前からの武部の同志、また久光を非常に可愛がっていた人物です。
能書家として有名で、福岡市内や近郊には関が書いた石碑がいくつもあるのですが、だいたい楷書のところ、この招魂碑はめずらしく芸術的(?)な字です。大好きだった人びとに対する関なりの悼みかた、なのでしょうか。
招魂碑ははじめ千代松原に建てられましたが、現在は平尾霊園内特別区「魂の碑」とともにあります。


【出典・参考文献】
※引用の際、旧字・俗字等は通行の字体に改めました。

*公文書*
〔民撰議院設立建白書〕(佐賀県士族副島種臣)
 上書建白書・諸建白書(1)・明治7年1月~明治7年4月
 本館-2A-031-08・建00012100(国立公文書館)
〔板垣退助建言(写)〕
 〔諸雑公文書(狭義)〕
 請求番号:本館-2A-037-00・雑00118100(国立公文書館)
福岡県越智彦四郎始処刑届
 公文録・明治10年・第142巻・行在所公文録5
 請求番号:本館-2A-010-00・公02164100(国立公文書館)
福岡県騒擾記事 全
 公文録・明治10年・第125-4巻・明治10年10月~12月・府県之部伺附録3
 請求番号 本館-2A-010-00・公02145100(国立公文書館)

*古文書*
山中立木「明治丁丑福岡挙兵懐旧談」
 明治~大正期
 山中家文書85(福岡市総合図書館、マイクロフィルム)

*定期刊行物*
山中立木「旧福岡藩事蹟談話筆録」
 『筑紫史談』第38号、大正15年
 福岡県文化財資料刊行会、昭和48年覆版
大熊浅次郎「八木謙斎の生涯」(「金子才吉事蹟」下9)
 『筑紫史談』第40号、昭和2年
 福岡県文化財資料刊行会、昭和48年復版
「玄洋社記録資料」1~11
 『玄洋』第4~38号、昭和10年9月1日~13年6月1日
原田街「遺品に溢るゝ越智彦四郎先生の気魄」
 『玄洋』第76号、昭和16年9月15日

*書籍*
内田尚長『近世英傑詩歌集』坤
 購文書屋、明治10年
奈良原至『明治血痕集』上篇
 磊落堂、明治14年
島津公爵家編輯所『島津久光公実紀』巻7
 明治43年
島津公爵家編輯所『島津久光公実紀』巻8
 明治43年
黒龍会『西南記伝』下巻2
 博文館、明治44年
藤本尚則『巨人頭山満翁』
 山水社書房、昭和5年
台麓学人(森鴎外)『血写経』
 寒川陽光他『愚庵全集』
 政教社、昭和9年第3版(昭和3年初版)
清漣野生(江島茂逸)『明治丁丑福岡表警聞懐旧談』
 大和塾道場、昭和48年
平野邦雄・飯田久雄『福岡県の歴史』県史シリーズ40
 山川出版社、昭和49年
建部武四郎「我が家の歴史」
 ノンフィクション集『北海道に生きて』
 北海道新聞社、昭和55年
『詳説 日本史』改訂版
 山川出版社、平成19年
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
 HOME
*NAME*
楢山 おろか
*CHARACTER*
近現代史屋
*FIRST*
 E-MAIL
arico_as_umeno*yahoo.co.jp
(*→アットマーク)
 Twitter ( 楢山おろか )
 ad
忍者ブログ [PR]